歴史シリーズ~源義経の巻~

悲運の名将『源義経』について少し考えてみた。日本人は、義経が大好きである。「判官贔屓」という言葉にそれは象徴されている。その時代を我々が知る手立てとしては、『義経記』か『吾妻鏡』によるところが大であるが、真実のほどは定かではない。歴史とは、そもそも不確実であり、そこが様々に想像を膨らませて楽しいのである。それらによると義経は父、義朝の9男として生まれ、母は常盤御前である。常盤御前は九乗院に使える身分の低い雑役婦であり、義朝の愛妾だった。平治の乱で謀反人となった義朝は命を落とすが、幼い牛若丸は兄二人と母に抱かれて、大和の国に逃れる。その後、常盤御前は清盛にわが子の命乞いのために京に戻り、兄二人(今若・乙若)は仏門に入り、牛若は鞍馬寺に預けられる。遮那王と名乗るが、僧になることを拒否し、金売り吉次と奥州の藤原家に身を寄せる。旅の途中、自らの手で元服し、義経と改名する。
多感な青春時代を藤原氏の下で過ごした義経は、頼朝が幽閉されていた伊豆で平治追悼の兵を挙げるや、秀衡の制止を振り切り頼朝の軍に馳せ参じるのである。一の谷の奇襲で勝利を収めた義経は、一躍表舞台に登場する。屋島・壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼした義経は、鎌倉へと凱旋するのであるが、頼朝の不信感は拭えず、現在の鎌倉市腰越の満福寺に留められ、頼朝との面会は許されなかった。義経は頼朝に対して叛意など一切無いことを示した書状を託すが受け入れてはもらえなかった。それが有名な『腰越状』である。お互いの溝は深まる一方で、結局義経は兄頼朝に謀反人として追われる身となり、再び奥州に逃れるが、父秀衡が亡くなると、頼朝の命を受けた長男泰衡の手によって衣川にて自刃して命を落とす。31歳の生涯であった。
義経といえば弁慶であるが、彼についての詳しい記述は残っていない。和歌山で生まれ、その後一時期比叡山にいたが、粗暴な故、山を追われた。五条の橋での義経との出会いは全くの架空で、たぶん鞍馬寺あたりで邂逅し、それから生涯を共にしたのである。義経ほど日本史上で戦の天才は見当たらない。連戦連勝で一度も負けたことが無い。青春時代を過ごした奥州で軍学に励み、会得したと思われる。義経の伝説は数多く残っており、歌舞伎の題材にも事欠かない。衣川から蝦夷に逃れ、海を渡り、大陸で活躍したジンギスカンは義経だという説もある。
私は彼にインタビューがしたい。
「本当は頼朝より自分のほうが優秀だと思っていたのでは?」と。

タイトルとURLをコピーしました