私の好きな歴史上の人物の一人に『織田信長』がいる。信長との出会いは、私が京都で浪人生活を送っていた頃、当時立命館大学の学長である『末川博』氏の講演を聴く機会に恵まれた。その時、氏は信長をサイエンティストだと紹介した。
信長が活躍した時代は大半が唯心論であったが、信長は数少ない唯物論者だった。信長が執った行動や施策を示し、例えば《桶狭間の戦い(計算し尽くされた戦)》《比叡山焼き討ち(坊主と暴徒は別物)》《鉄の船(世界初鉄製の軍艦を造り毛利の村上水軍を撃破した)》等々列挙し分かり易く話していただいた。
二回目の出会いは、東京で怠惰な大学生活を送っていた頃、友人の一人が、
「お前、何をするために大学へ来たんだ?毎日毎日マージャンと新宿の街を徘徊して、これでも読め!」と言われて手渡されたのが『国盗り物語』だった。一気に信長ファンになり、同時に司馬遼太郎を読み漁るきっかけになった。
信長に関して最大の興味と謎は、何と言っても《本能寺の変》である。明智光秀の末裔である『明智憲三郎』氏が執筆した《本能寺の変431年目の真実》を読んだ。明智氏と私の見解は、光秀単独説ではないという点で一致している。氏は現存する様々な人物の文献や手紙を細かく分析した結果、家康が黒幕であると断言している。その密約は、信長から任命された家康饗応役の際に、秘かに行なわれたと言うのである。本能寺の変の後、堺にいた家康が僅かの手勢で伊賀を越え逃げ果たせたのは、いかにも不自然であり、用意周到の光秀がそんなミスは冒さないと言うのである。
一方私は秀吉との談合説である。それを証明する確たる証拠は何一つ残っていないが、何かの機会で二人は、このままでは将来が見えない、新しい仕組みの世の中を創ろうではないか、などと意見が一致し、そのタイミングを計っていたと思う。事前に知りえていないと、歴史上云われているように、備中高松から姫路までの《大返し》など実際不可能である。今で言うなら、光秀が会長に、秀吉が社長に就任する手筈になっていた。ところが、官兵衛辺りの策略で急遽天下取りに秀吉の気持が動いた。慌てたのは光秀の方で準備する間もなく、山崎で主殺しと言う汚名を被ったまま惨敗する運命になる。
歴史は実に楽しい。皆さんも大いに楽しんでいただきたい。
歴史シリーズ~織田信長の巻~
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