掛かってきた二本の電話

一本目は神戸に住む叔母からの電話だった。内容は要約すれば
「今体調がすぐれず入院している。来年の年賀状は書くことが出来ない。ごめんね。お前も体に気を付けて頑張ってね」
私の叔母はここ数年体調が思わしくなく、入退院を繰り返していたことは知っていた。気にはなっていたが、なかなか時間の都合がつかず、年が明けてから見舞いに行った。そのことを話すと妻も一緒に行きたいというので、電車で出かけた。
病院に着き案内を乞うと看護師が丁寧に病室まで連れて行ってくれた。ドアをノックして開けるとその変わり果てた様子に私は愕然とした。娘(私の従妹)もちょうど仕事がお休みだったので付き添っていた。小一時間ほどいろんな思いで話をし、少しばかりの見舞金をそっと手渡し帰路に着いた。

叔母は4人兄弟の末っ子である。一番上の姉は洋服屋を主人と一緒に営んでいたが数年前に亡くなっている。その次の兄が私の父親で3年前に亡くなった。次が男で今も神戸で暮らしており、どこかの老人ホームに入所しているそうだが所在は教えてもらっていない。その下が叔母である。母親、つまり私の祖母は、早くに最初の主人をはやり病で亡くし、女手一人ではあの時代生きて行くのは困難であったため後添えをもらった。その義理の父親と私の父の折り合いが悪く、唯一義理の父の子供が叔母であり、なぜか父は義理の父親が亡くなってからというもの何かにつけ叔母につらく当たった。私はそばから傍観するより仕方なかった。阪神大震災の時、父は弟にはいろいろしてやっていたが、妹すなわち叔母には何一つ構ってやらなかった。見るに見かねて私は当時のパナホームの工事監督5~6人にお願いをして、叔母の住んでいたマンションの9階から荷物を、バケツリレー方式で運び出し、トラック数台に積み込み、仮の住まいであった垂水まで運び、いくばくかの見舞金を渡した。そのことを長年気にしていたのか、時々品物を送ってくれていた。

二本目の電話は数日前の夕方だった。叔母が亡くなったという知らせである。娘(従妹)によると、その日の朝の5時半で本人も間に合わなかったそうである。駆けつけたかったがスケジュールが立て込んでおりどうにもできない。気丈に一人で大丈夫、と言った。私は思わず涙が溢れ出た。
会えていてよかった、話が出来てよかった、娘にも会えてよかった、
妻と無言で頷き合った・・・

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