帰燕抄

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清明の産屋さざなみあかりかな

この句は土方公二君が俳壇にデビューを果たした渾身の一作である。

彼は兵庫県の西北に位置し、鳥取県と岡山県の県境に接する「宍粟郡(現宍粟市)」という、周囲を山々に囲まれた小さな田舎町で生まれ、山崎高校という、ほとんど無名の高校に通っていた。当時の校長が勉学にことのほか熱心で、2年生になると普通のクラスとは別に能力別にクラスを編成させて、有名大学を目指すような指導が行われていた。その能力別クラスで私は土方君と邂逅した。そして同じ文芸部に所属し一端の文化人を気取っていた。私は大学受験に失敗したが彼は見事現役で京都大学に入学し、有意義な大学生活を過ごし、日産自動車に入社した。その後は生来の勤勉さに加え努力を積み重ね、アメリカ・オーストラリア・ヨーロッパ等海外勤務を経て、社長秘書課長などを歴任した。我々は彼が必ず副社長くらいには就くと期待していた。ところがゴーン氏の出現でその路線が途絶え子会社に出向し、その後ファイナンス会社へと籍を追われていった。ちょうどそのころに病を発症し手術をした。発声がしづらい時期もあったが、懸命の努力の末、ほとんど正常者と変わらない状態になった。
そのころぐらいに俳句を始めたと思う。

数日前の午後、友人から私の携帯に電話が入った。土方君の訃報の知らせである。奥様から友人に連絡が今あったという。話を聞いても全く要領がつかめない。どうやら奥様との旅先での出来事らしい。葬式等は人数が20名と限られていて、我々が出席できる余地はないとのこと。

非の打ち所がない人間とは彼のことをいうのであろう。少なくとも私の身の回りには存在しない。俳句を始めるにあたって「井上弘美女史」との巡り合いは大きな財産となり、13年を経たのち、彼が2年前に発刊した360句からなる句集『帰燕抄』は、彼を俳人と呼ぶにふさわしい句集である。彼の句の根底には望郷の念が流れており、彼のやさしさや思いやりが溢れている。

《帰燕抄》私の宝物であり、私の棺の中に私の拙著と共添えるよう遺言書に書き加えることにした。

父母に永遠の帰省子稲の花
少年に帰燕の空のうすづけり
枇杷の花母は生涯目分量
綿虫とゐる残照の消ゆるまで
火の痕の残りし瓦すべりひゆ

彼は75年の生涯だった。人生は長さではない。濃さである。また会おう。その時は笑顔で迎えてくれ・・・

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