わが友・土方公二君

彼とは同郷である(宍粟市山崎町)。田舎の山崎高校で知り合い今日まで約半世紀以上の付き合いが続いている。同じクラスにはなった記憶がないが当時の校長が進学と言う勉学にこだわり、2年生になると普通のクラスはそのままにして新たに別に就職組と進学組を作り、さらに進学組を理系と文系に分け、さらに文系の生徒に試験を行い、成績順で3段階に分類し、徹底した進学指導を進めたのである。結果田舎町にしては関関同立を初め、京大・阪大・神戸大・東北大などを含めたいわゆる国立一期校にもかなりの数の生徒が進学した。その進学組の文系クラスで彼と親しくなったのである。私は受験に失敗し浪人生活を余儀なくされたが、彼は稀代の秀才で見事京都大学に合格した。
彼はESSクラブに早速入部し英語を学び、英語での弁論大会にも出場し英語力を高めた。就職するにあたり、私の記憶では三菱商事からも内定は貰っていたが、結局は日産自動車に入社した。私の結婚式にも参列してくれ、素晴らしいスピーチを披露してくれた。そのスピーチの内容は今でも覚えており、その後出席した幾度かの結婚式での挨拶に使わせてもらった記憶がある。(ごめん土方)
日産自動車に入社してからは、アメリカ・オーストラリア・ドイツなど海外勤務を歴任し、当時の石原会長の秘書課長も勤めあげた。私は副社長くらいまでは登ると信じていて、彼に義理立てしていたわけではないが、社内で私だけ日産の車に乗り続けていた。おりしもゴーン改革の嵐が吹きまくり、彼は傍系のファイナンス会社に追いやられてそこで定年を迎えた。人間の運気とは不可思議なもので、丁度運悪く病魔が彼を襲い、一時は発声もままならぬ状態に陥ったが、持ち前の明るさと努力でリハビリに努め、今では健常者と遜色のないところまで回復している。彼が落ち着いたころ、私が所用で上京した際に神田の藪そばで食事をした時のことである。私は彼の勤勉さと感性を高校生時分から信じていたので、彼に俳句を勧めた。
次に会った時には井上弘美女史に師事し、すでに俳句への道を進んでいた。聡明さでめきめきと俳句がうまくなり、志澤塾でも4回ほど俳句講座を開いて頂いた。この8月には句集を上梓するとの事。自分の事のように私は嬉しくてたまらない。
彼は、私が最も誇れる友人の一人である。

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