義弟の生涯

まさしく怒涛の4日間だった。
一日目
私は通常通り9時過ぎに入浴を済ませ自分のベッドで読書をしていると、階下から妻が「お父さん、今から病院へ行く、病院から電話がかかってきて、すぐ来てほしいとのこと」私も一緒に行くと言って、すぐさま着替え、市内にある総合病院へ駆けつけた。午後10時10分頃だった。ナースセンターに立ち寄り、看護師の案内で病室に入った。間もなく当直医がやってきて、型通りの検診をしたのち「10時20分、ご臨終です。ご愁傷様です」と言って手を合わせた。妻も私もあまりのあっけなさに涙も出なかった。妻はその日のお昼頃に電話で会話したばかりだったそうである。看護師が葬儀会館に連絡を入れてくれると、12時に迎えに来るとのこと。妻は遺体を安置できるように片付けるため、一足先に実家へ向かった。12時にお迎えの車が来て、医師や看護師に見送られながら、私が先導し実家まで案内する。仏間に遺体を安置し、お線香とろうそくを立て、運転手たちは帰って行った。妻は実家に泊り、私は自宅に帰った。午前1時半頃だった。
二日目
午前10時半。死亡診断書を市役所に提出し、我々の希望するお通夜並びに葬儀の時間を決めなければならない。すべて会館の担当者が代行で行ってくれる。午後1時半。再度会館の担当者とお通夜並びに告別式の打ち合わせを、妻の妹夫婦も同席の上詳細に行った。その結果翌日午後6時お通夜、その次の日、午後1時30分告別式を執り行うことに決まった。その夜は義弟の姉、つまり家内の妹が実家に宿泊することになった。その日の夕方に我々夫婦は自宅に帰ったが、何をして過ごしたか?その日の夕食には何を食したかも記憶にない。
三日目
義妹夫婦が昨夜泊ったので早めに自宅に帰り準備したいとのことで、私は9時半から湯かんが始まる一時間前に行き、おくりびと、いわゆる納棺師を迎えた。時間通り納棺師は男女ペアで大型のワゴン車に乗ってやってきた。そのワゴン車から湯舟を取り出し、その上に簡易ベッドを設置し、遺体をその上に寝かせシートを被せ、シャワーでシートの下から綺麗に洗い清める。それが終わると棺の中に遺体を納め、家内たちが用意していた衣服を義弟に着せてゆく。顔剃りや薄化粧を済ませると終了である。湯舟の排水も自動でワゴン車に戻される。その間小一時間。見事な手際の良さと心のこもった湯かんだった。午後4時、自宅から葬儀会場に向かう。沢山の近所の人々に見送られながら、お迎えの車に乗って義弟は自宅を後にした。
お通夜は午後6時からである。
馴染みの住職の読経の中粛々と通夜式は進んでゆく。御文章の一節である「白骨の章」を読み終え式は終了した。その夜は参列した親族にお弁当を持って帰っていただいた。従来なら会食するのであるが、コロナ禍であり多人数での会食を避けるためである。
四日目
告別式は午後1時30分からである。お非時もコロナ禍のため省略されそれぞれにて取る。読経が終わり棺の中はお花で一杯になる。午後2時30分霊柩車が迎えに来る。それに引き続いて、主だった親戚は自分の車に乗り斎場へと向かう。いよいよ最後のお別れである。家内と義妹とが手を添えてボタンを押す。すすり泣きがどこからともなく聞こえてくる。お骨上げは午後4時半。木と竹の箸を使って、皆が思い思いにお骨を拾い骨壺に納める。それから寺院に行き初七日を済ませると、すべての儀式は終了である。
その夜はどうして過ごしたか、私の記憶からは飛んでいる。
最終章
時節柄家族葬と云う形式ですべての儀式を執り行った。
彼は65年の生涯だった。
短いと言えば短い。でも私は思う。宇宙空間的に考えれば、針の穴ほどもない時間の距離である。人生とは生きた年数ではない。その人が生きた、濃さ、である。
そういう意味では彼は、大学卒業後、定年を迎えてからの臨時職員としての期間も含め、40数年間一貫して小学校教師を務めあげた。そして全くの部外者である私の耳にさえもその評判の良さは入ってきていた。どんな賛辞を贈ったとしてもその生きた証を表現し称える言葉は見つからない。
彼が使用していた髭剃機。今私が使わせてもらっている。

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