市川房枝女史を知る年代は少なくなったと思う。私が彼女を知ったのは、中央大学に在学中のことである。彼女が87歳で亡くなるまでの33年間の一時期を、同じ空気を吸いながら生きたことになる。
女史は愛知県で生まれ、師範学校を卒業後新聞記者となり、平塚らいちょうらと共に、日本で最初に婦人協会を設立し、婦人の参政権獲得活動を展開する。これは私の推測だが、NHKの朝ドラの主人公のモデルにもなった『広岡浅子』とも接触があり、少なからず影響を受けたものと思われる。1919年から続けた婦人参政権獲得運動は、戦後ようやく実り、1945年12月に実現するのである。その後は、売春禁止や再軍備反対運動に尽力し、社会派運動家として万人の知るところとなる。
1953年、第3回参議院通常選挙に東京地区から立候補し当選を果たす。その後全国区に変わってから、合わせて通算5期25年間参議院を勤めた。87歳で全国区に立候補し、見事トップ当選を果たした。が、同年心筋梗塞のためその生涯を閉じた。
彼女の選挙スタイルは、組織に頼らず個人の支援者が自らの手弁当で行う、お金のかからない、しがらみのない、きれいな選挙スタイルを生涯通した。いかなる政党にも属さず、無所属議員の集合体である「二院クラブ」として政治活動を行った。後に有名になった《青島幸男氏》や《横山ノック氏》らもその二院クラブの会員として活躍した。元総理の《菅直人氏》も女史の秘書として政治家への道をスタートした人物である。
沖縄返還密約問題に対しても、社会党の党首や後の社民党党首を歴任し、衆議院議長も務めた《土井たか子女史》らと共に、時の自民党総裁であった《佐藤栄作氏》と激しく議論を交わした。また国際連合にも日本人女性を送り出したいと考え、当時国際基督大学で教鞭を取っていた《緒方貞子氏》を説得し了承を得、それを契機に緒方氏は広く国際社会で活動を行い、国連難民高等弁務官として世界平和のために尽くした。
市川女史が亡くなり35年が経過しようとしているが、相変わらず政治家の不正は改まる要素は伺えない。原因の一つは選挙にお金がかかり過ぎることであり、今一つは切れないしがらみにある。
蓮舫女史か小池知事に期待するのは、少々酷であろうか?
歴史シリーズ~市川房枝~
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